2009年、大学院の博士課程も2年目を迎え、博士論文の研究対象をいよいよ決めることとなった。まだ誰も手をつけていないフィールドを開拓したいとの思いから、海外都市の事例研究をすることにした。まず手がかりとして、修士課程を1年間休学して敢行した世界一周の旅の記憶を振り返った。好きな街や思い出の場所は数えたらきりがないが、素直にまた行きたい場所はどこか考えた時、コロニアル建築やカラフルな街並みをバックに都会の喧騒が繰り広げられる、メキシコの街の風景が真っ先に頭に思い浮かんだ。
「そうだ、メキシコに行こう!」テーマ設定も程々に、とりあえずメキシコに行けば何か面白いネタが見つかるだろうと、根拠のない期待を抱いてメキシコ行きを決めた。そんな自分がメキシコの、さらには都市の公共空間について興味を持つきっかけとなったのが、メキシコ・シティ旧市街の南東部、メルセー地区に位置する「フアン・ホセ・バス広場(Plaza Juan José Baz)」である。
当時メキシコ・シティでは、2006年12月に市長に就任したマルセロ・エブラルドのリーダーシップの下、公共空間の再整備による旧市街の再生プロジェクトが目下進行中だった。2006年の市長選に出馬したエブラルドは、2010年に独立200周年、及び革命150周年を迎えるにあたり、メキシコ・シティ、さらには国家の象徴的な中心である旧市街の再生を公約に掲げていた。本格的な都市の再生を進めるにあたり、人々が自由に行き交い交流することができる公共空間の重要性に着目し、広場や街路をはじめとする公共空間の再整備を都市戦略の一つとして掲げ、旧市街はそのモデル地区の一つとして位置づけられたのである。
エブラルド市長は、メキシコ・シティ連邦地区政府の中に公共空間と旧市街の再生に特化した2つの特別局(Autoridad del Espacio Público・Autoridad del Centro Histórico)をそれぞれ設立し、露店整理や広場・街路整備に順次着手していった。
恥ずかしながら、大した下調べもせずにメキシコに乗り込んだ呑気な自分は、そのような大規模プロジェクトが進行中とは知らなかった。メキシコ・シティに到着して間も無く、昔の旅の記憶を辿ってみようと軽い気持ちで旧市街へ足を運んでみると、かつての雑然とした緊張感のある街の風景が大きく変わりつつあることを肌で感じ、何やらただならぬ変化が起きていることを理解した。と同時に、まちなかをひとしきり歩いて回ると、路上で商売する人や広場で遊ぶ子供たちの姿をあちこちで目撃し、古き良き屋外生活の伝統がいまなお色濃く残っていることにも気づかされた。公共空間の再整備で街の風景が大きく変貌を遂げる中、こんなチャンスは2度とないと思い、メキシコ・シティ旧市街における公共空間の質を博士論文の研究テーマにすることを決めたのである。
テーマが決まってからは、とにかく暇さえあれば旧市街に出かけ、地図を片手にまちの至るところを歩いて回り、人々の様子を観察するのが日課となった。何度も旧市街を散策する内に、自分のお気に入りの広場や街路が見つかってくる。フアン・ホセ・バス広場もその一つである。
フアン・ホセ・バス広場は、長さ97m・幅30〜36mの南北方向に延びた台形の広場である。広場の中央には、メキシコ合衆国の国旗にもあしらわれている鷲のモニュメントを配した噴水が設置されている。「蛇をくわえた鷲がサボテンの上に降り立つ地に、我が神殿と都市を建設せよ」との神託を受け、流浪の末にテスココ湖に浮かぶ一つの島に辿り着いたアステカ族が、一羽の大きな鷲がサボテンの上で蛇を食べるのを目撃し、定住を始めた場所がこの広場であるとの言い伝えによるものだが、真偽のほどは定かではない。
18世紀初頭の地図をみると、現在の広場の半分ほどの大きさの広場状の空地が確認できるが、1860年代後半に北側へ拡大し、現在のような南北に延びた形状となったようだ。以降、テノチティトラン建都にまつわる伝説にちなんで、アギリータ広場(Plaza de la Aguilita:鷲の広場)と命名され、これが1869〜1929年まで公式な広場の呼称として用いられていた。
広場の詳細な歴史については割愛するが、ポルフィリオ・ディアス大統領の時代(Porfiriato:1876〜1911)、フランス文化の影響を受けて市内各所の広場で庭園の整備が進められると、1907年にフアン・ホセ・バス広場でも庭園が整備されることとなった。しかしながら、メルセー市場の繁盛とともに、メルセー地区が市の一大食料供給地として発展すると、フアン・ホセ・バス広場の沿道もトマトやバナナなどの倉庫街へと変貌を遂げていき、広場は専らトラックの駐車場として利用されていくこととなった。
その後、1957年にメルセー市場の移転、1982年の中央卸売市場(Central de Abasto)の建設とともに、メルセー地区が生鮮食品の倉庫街から文房具屋街へと変貌するに連れて、フアン・ホセ・バス広場も歩行者空間としての機能を取り戻していく。1990年代に車道を廃し、全面歩行者専用の広場へと拡張されると、地区コミュニティの核としての機能を獲得していくことになる。
旧市街の他の広場と同様、フアン・ホセ・バス広場もエブラルド市政による旧市街の公共空間再生プロジェトの一環として、2007〜2008年にかけて改修工事が行われた。これにより、旧市街東部を南北に貫く歩行者専用ネットワークの一部として位置付けられるとともに、舗装やストリートファニチャーの更新、沿道建築物の修景などが行われた。
なお、広場の中央に鎮座する鷲のモニュメントも、この時に整備されたもので、広場の旧称であり、地域住民による広場の一般名称でもある「アギリータ(Aguilita:鷲)」を象徴するものが欲しいとの地域の要望を受けて、2007年2月に設置されたものである。
人口流出に悩まされる旧市街の中でも、比較的居住人口の多いメルセー地区の中心部に位置するフアン・ホセ・バス広場は、第一に、近隣住民のための空間であり、コミュニティの核となる広場である。昼夜、広場のあちこちで住民がくつろぎ、語り合う姿が見られる。広場沿いには、ベシンダー(Vecindad:馬蹄形のプランをした庶民向けの低層集合住宅)が2棟、アパートが4棟建っているが、こうした高密度な集合住宅に暮らす地域住民にとって、広場は生活空間の一部であり、家族、友人、近隣住民とのコミュニケーションが溢れ出す場所でもある。足繁く広場に通っている内に近隣住民とも仲良くなり、べシンダーやアパートの中に何度かお邪魔させてもらったが、決して豊かとは言えない狭小な内部空間と豊かな屋外空間が、コインの表裏の関係であることを理解した。
また、広場は若者や子供の遊び場でもある。低層部のテナントに入っている文房具屋や食堂が店じまいを始める頃になると、ボールを持った子供や若者がどこからともなく現れて、夜遅くまでサッカーに興じている。ここメキシコ・シティ旧市街では、広場や街路は自由に遊ぶための場所でもあり、「道路族(※公道で遊び、近所に迷惑をかける人々)」という概念など存在しないのである。
卸売り・小売りの商店が集積するメルセー地区には、店舗と納品先を結ぶ輸送手段として、ディアブレロ(Diablero)と呼ばれる、荷物運びで生計を立てる人々が数多く存在する。連邦地区政府の調べによると、約1,000人のディアブレロが旧市街で活動しており、その多くが旧市街東部や北部の問屋街で活動している。フアン・ホセ・バス広場でも、広場一帯の文房具屋等から、商品や廃棄物の運送を依頼されたディアブレロ達が、頻繁に往来している。
メキシコにおける荷役人夫の仕事は、100年以上の歴史を持ち、現在のように台車が普及する以前は、メカパレロ(Mecapalero)と呼ばれ、背中に背負った荷物を革紐(Mecapal)に結びつけ、革紐を額にかけて荷物を持ち上げて運んでいたという。こうした荷役人夫の活動は、地域住民にとって慣れ親しんだ日常的な光景である一方、ディアブレロの多くが、近郊農村から出稼ぎにきた季節労働者で、オーナーからの搾取や当局からの弾圧に悩まされてきた。そこで、地域住民の一人が立ち上がり、彼らの活動を記録した映像作品を制作するなど、地位向上に努めている。彼女とは広場の調査を通じて偶然知り合い、以来、独立記念日やクリスマスのフィエスタに毎年招かれ、家族ぐるみで付き合いをさせてもらっている。広場とはまさに出会いが生まれる場だ。
広場は地域住民に、ささやかな商売の場も提供している。文房具屋をはじめ低層階の店舗が閉店する頃になると、広場にタコスや軽食などの屋台がどこからともなく現れて、夕飯や軽食を取る近隣住民でちょっとした賑わいを見せる。仕事で帰りが遅く、料理する時間がない近隣住民が、夕食や軽食をとりに訪れる。夜もしっかり食べる日本と違い、夕食は比較的軽くすませる生活様式のメキシコにおいて、手軽に小腹を満たせるこのような屋台は、重宝されている。話を聞いてみると、顧客の多くが常連さんで、各住民がそれぞれのお気に入りの店に足しげく通っているそうだ。
通常、公道である広場でこのような商売を営むには、占用料の支払いが義務付けられているとともに、エブラルド市政の露店整理プログラム対象エリアに含まれていることから、この広場での商売はそもそも禁止されている。しかしながら、区では、歩行者の少ない夜間の営業であることや、地域住民のニーズに応えていることを考慮して、禁止区域内ではあるものの、利用料を現地徴収することで活動を特別に認める方針をとっていることが、調べている内に分かった。なんでも白黒ハッキリさせるのではなく、時にはグレーな対応も必要であるということを学ぶ。
広場は時に、地域住民のための大小様々なイベントの会場としても使われる。例えば、子供の日(4月30日)と母の日(5月10日)になると、近所に住むプロレスラーの企画の下、広場中央に特設リングを設置して、ルチャ・リブレ(Lucha Libre:メキシコのプロレス)が開催される。広場中央に組まれた仮設のリングの上で、覆面をまとったレスラーが試合を繰り広げ、近隣住民や通行人、沿道の商店で働く従業者などが歓声や野次を飛ばし合って楽しむ姿は、何とも微笑ましい。
また、セマーナサンタ(復活祭)の金曜日には、メルセー地区の住民から信仰を集めるサン・パブロ教会の巡礼の一環として、広場で演劇を行うのが約半世紀前から慣例となっている。イエス・キリストの復活を祝う復活祭は、クリスマスと並び、カトリック信者にとって最も重要な宗教行事の一つである。巡礼の参加者は600人にも上り、広場に設置されたステージにおける有志グループによる迫真の演技とともに、広場は熱気に包まれる。
こうしたイベント利用は、通常であれば区の占用許可が必要となるが、よくよく聞いてみると、申請しても区の処理が遅々として進まないことから、大規模イベントに伴う安全確保や交通整理の協力を警察に要請をするのみで、区も一切関知してこないとのこと。良くも悪くも、実に自由である。
メキシコで調査を始めて半年が経った2010年2月、広場の南側に突如、バラック村が出現した。広場の南側の建物に住んでいた人々が、1985年の大地震以来、建物の所有者が不在なのをいいことに不法に占拠・居住していたとして、区によって強制退去させられたのである。不法占拠は25年間に渡って黙認されていた(何ともメキシコらしい)が、建物の名義人が現れたことを受け、区が差し押さえに乗り出し、それまで建物で暮らしていた30世帯が強制退去を余儀なくされた。家財を持ち出す十分な時間も与えられないまま退去させられた上に、24時間以内に広場から退去するよう命じられたものの、行くあてのない22世帯(約90人)は広場に留まることを選択し、広場南側の植え込みとボラードの間のスペースにバラックを建てて住み始めたのである。
彼らに話を聞いてみると、火事にならないようガスの利用を禁止する、夜間の警備を当番制で行なうなど、様々なルールを設けながら自分たちの居場所の確保に努めていた。近隣住民との関係については、彼らの多くが、公共の場を占有していることについて負い目を感じていることも分かった。一方、近隣住民に話を聞いてみると、意外にも寛容で、中には調理器具や子供服、毛布などを提供する者や、服を洗濯してあげる者など、彼らが生活する上で必要な手助けをしている者も多数見受けられた。
その後、強制退去を執行した区では、月1回のペースで話し合いの場を設けてきた。法律上、広場における居住行為が禁止されているとはいえ、再び乱暴な方法で彼らを追い出すことで、近隣住民だけでなく一般市民から更なる反発を買うことを恐れ、移転先となる住居の提供という平和的な解決策を模索していたが、どこまで本気だったかは計り知れない。結局、2012年8月にようやく移転が決まり、2年半の長きにわたる不法占拠から広場は「解放」されることとなった。
一連の騒動を通じて、広場で起こる出来事は、プランナーやデザイナーが思い描くような綺麗事ばかりではないという現実を目の当たりにするとともに、バラック村の存在をも受け入れるこの広場の寛容さと、そのような広場の器量を支える近隣住民の懐の広さを垣間見て、広場の公共性とは何か、考えさせられた。
人生を変えた広場との出会いというタイトルはやや大げさかもしれないが、この広場で見聞きしたこと、体験したことが、自分が広場にハマる大きなきっかけの一つとなったことを、ここに記しておこうと思う。
メキシコ・シティを訪れる機会があれば、ぜひ足を運んでみて、古き良き下町の広場を体感して頂きたい。(※治安の観点から夜間の訪問はオススメしません)